Twitter上にはびこる自称ADHDたち
発達障害は、生まれつき脳の発達が通常と違っているために、幼児のうちから症状が現れ、通常の育児ではうまくいかないことがあります。成長するにつれ、自分自身のもつ不得手な部分に気づき、生きにくさを感じることがあるかもしれません。
ですが、発達障害はその特性を本人や家族・周囲の人がよく理解し、その人にあったやり方で日常的な暮らしや学校や職場での過ごし方を工夫することが出来れば、持っている本来の力がしっかり生かされるようになります。
(https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_develop.htmlより引用)
だ、そうだ。
最近、Twitter上では自称“発達障害”であったり、自称“ADHD”であったりする人間が数多くいるように思われる。
かく言う私もそのうちの一人だ。
小学生のころから、よく「天然」だとか「変わっている」だとか言われてきた。
複数のことを同時にできないのも私の特徴である。
最近(とは言っても半年ほど前だが)、私はバーテンダーのアルバイトを始めた。バーテンダーというと優雅な印象を持たれがちだが、正直な話金曜や土曜の深夜帯は非常に忙しく、私にはとても対応できない。
因みに昨日はハロウィンだったのでコスプレ客が大量に押し寄せ、JOKERまでも来店した。
話を戻す。
私は非常にマルチタスクが苦手なので、忙しい時間などは私だけではどうにもならず、店長の判断で他店舗から応援を呼んだりすることになる。
ホール、キッチン、会計の往復でてんやわんやだ。
私は他のメンバーと比べてあまりにも仕事ができない。それでも辞めずに続けているし、努めて明るく振る舞うようにしているため、
周りからは「仕事ができないが無駄にメンタルが強い」キャラだと思われている(実際メンタルが強いわけではない)
その他にも、朝起きられないだとか、ギリギリになるまでやるべきことをやらないだとか、枚挙に暇がない。
ところで、私の友人にもそのような特性を持っている者が多いと感じる。私は偏差値72の高校を卒業しているが、高校時代の友人は比較的に約束の時間を守らない傾向にある。学力の偏差値が高い人間にはADHDの傾向が強いのだろうか。逆に、前述した「仕事のできる同僚たち」は一様にフリーターであり、学力が高いとは言えないだろう。要するに、使うのが得意な脳の領域は人によって違うのではないか。
と、すると、何をもって「頭が良い」とするのだろうか...(話が逸れるので、この話題はまた別記事にする)
自称ADHDの人間は、病院で検査を受けたのだろうか。
私は未だに検査を受けてはいないし、受けるつもりは今のところない。というのも、「自分はただ単に怠惰な健常人ではないか?」とも思わざるを得ないからだ。
恐らく自分のことをADHDだと思う人間の多くは、“生きづらさ”をいうものを感じている。そして、その生きづらさを病気のせいにしたり、Twitter上で同じような仲間を見つけて傷を舐め合い、心の安寧を求めているのではないか。
自分がただの怠惰な健常者だとわかるのが怖いのかも知れない。
怖いのは、自分自身にADHDである、という自己暗示をかけ、常に行動を先送りにしてしまうことだと思う。
私も自分自身のことをADHDかもしれない、思うことはあるが、自己暗示をかけず、まずは行動することが必要であると思う。
仮に本物のADHDだったとしても、病院にいく、という「行動」を起こさねばならない。結局のところ、行動を起こさねばなにも始まらないは事実であるし、そのような社会は生きづらいが、それを受け入れ、少しずつでも進歩するよう努力するしかない。
刻め、ブレイジングソウルビート
皆さんは青春と言ったら何を思い浮かべるだろうか。
恋愛に始まり、部活、勉強、未来への期待と不安、アイデンティティの確立、友情と裏切り...などなど、楽しいことも苦しいことも包括しているのが“青春”ではないだろうか。
さてさて私が人並みの青春を送ることができていたのかはさておき、一つ未練が残っていた。
それが「バンドを組むこと」である。
高校生時代にバンドを組んでいる同級生は沢山いた。彼らのライブを観に行ったこともあるし、それが上手だか下手なんだかは素人の私にはよくわからなかったが、彼らは「青春」をしており、私の目には輝かしく見えた。
にも関わらず何故か「自分がバンドを組む」という発想に至らなかった私は、だらだらと高校生活を終え、浪人をし、大学3年生になった。
高校時代にバンドを組んでおけば良かったなァ...という気持ちは、浪人生の時から持っていたものだった。とはいえ、大学3年生の今になってバンドを始めるのはもう遅いかなァ...と考え、私は行動を起こさずにいた。
そんなときに私は友人に誘われて「空の青さを知る人よ」を観に行った。
アニメに詳しい方なら知っているかもしれないが、本作は「あの花」や「ここさけ」の「超平和バスターズ」によって製作されており、主題歌は今や国民的アーティストと言っても過言ではないあいみょんが担当している。
話は少し横道に逸れるが、本作脚本家の岡田麿里氏が同じく脚本を務める映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」
漫画、及びそれを原作としたアニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」
はいずれも私の推し作品なので、少しでも興味を持った方は見てくれると嬉しい。
さて、話をバンドに戻す。
公開中の映画のネタバレをする気はないが、本作を観て思ったこと。それが、
そうだ バンド、組もう。
だ。
大学3年になってバンド始めるのは遅いと考えていたが、まだまだ私は若い。それに、何かを始めるのに遅すぎるということはない。そう考えての結成だ。
早速ギター&ボーカル、ドラム志望の友人と共に、ベーシストである私はバンドを結成した。
今までバンド結成に対して謎の憧れを抱いていた私だが、これからは恐らく大変なことも沢山でてくるであろう。しかしそんなときには、「けいおん!」を鑑賞して乗り越えて行きたいと思う。
因みにメンバーの残りの2名はいずれも男性である。
決して一緒にバンドを組めるような仲の女子がいない、ということではないことを注意されたい。
初対面の人々と人生初のキャンプした話
昨日、一昨日と人生初のキャンプに出かけてきた。本記事では、その様子をレポートしようと思う。
その前に、私がキャンプに行くことになった経緯について説明する。
私は最近、インカレのキャンプサークルに入ったのだ。インカレサークルとは、様々な大学の人間によって構成されているサークルのことを指す。
サークルには初めての参加であり、加えて私と同じ大学の者はいなかったので、当然一緒にキャンプをするメンバーは当然初対面の人ばかりである。
私は、どちらかといえば人見知りをするタイプの人間である。人見知りが悪いことだとは言わないが、自分ではその面を矯正したいな、と考えている。
また、自大学の自分の所属するコミュニティだけでなく、自分と繋がっている他人を増やしたいな、との思いもあった。
そういうこともあり、今回私は初対面の人々と共に山へ向かうことに決めたのである。
集合場所の駅に着くと、今回共に山へ向かうメンバーが既に集まっていた。幸いなことに、彼らはどこの馬の骨ともわからない人間である私に対して気さくに話しかけてくれたため、打ち解けるのにそこまでの苦労は必要としなかった。幸先のよいスタートである。
バスに揺られてキャンプ地に到着した。
まずはじめにすることはテントの設営である。
テント設営などしたことのない私は、何をして良いか右も左もわからない状態である。そんな私に対して、同じ班のメンバー達は適切な指示を出しつつ、あれよあれよとテントを完成させた。脱帽である。
その後はハイキングだ。とりあえず付近を探索してみたのだが、高原から臨む景色はそれはそれは素晴らしい。私の貧弱な文章力ではその魅力の1/10も伝えられないかもしれないが、兎に角五感の全てを揺さぶられる感じがある。空気も雲も全てがゆっくり流れている。以下に写真を掲載するが、これに関しては実際に自分で行ってみることをお勧めする。
そんなこんなですっかり日が暮れてくる。もう秋だなぁという感慨と共に晩御飯の準備がスタートだ。
今夜のメニューはすき焼きだ。当然コンセントはないのでガス缶を使いコメを炊き、すき焼きを煮込む。ガス缶大活躍である。いざという時のために、一つは持っておくべきであろう。
山の夜は驚くほど暗い。当たり前のことのようだが、文明の光に照らされ続けた私にとって、これは初めての体験だ。夜7時にして周りに光はなく、全てが翳っている。
そんな中で懐中電灯やスマホの光を駆使して、無事にすき焼きは完成した。
私の写真のセンスは置いておいて、山で食べるすき焼きは別格だ。陳腐な表現ではあるが、生を実感することができる。「食事する」とは毎日当たり前のように行っている行為が特別なもののように感じられた。
食事を終えると、就寝時間だ。山の夜は早い。さっき設営したテントに入って寝袋に包まり眠りに入る。
夜は酷い土砂降りだった。こんな土砂降りの中でもテントは雨風から私達を守ってくれる。テントの偉大さ、ここに極まれりだ。
2日目も登山をする予定だったのだが、生憎の雨で中止になってしまった。とは言え、温泉に行けることになったので結果オーライである。
今回のキャンプで初対面の人々と交流し、私の人見知りも若干マシになったものと思われる。私はこれからも、大学生活のうちに様々な人に会い、様々な経験をしようと考えている。
読者の皆様も、是非是非自分一人で新たな世界に飛び込んで行ってみてほしい。
塾講バイトという泥沼
タバコの記事で軽く触れたが、私は現在とある個別指導塾の講師としてアルバイトをしている。
そして私はその労働環境に非常に満足している。
私は大学一年生の秋頃にこのアルバイトを始めたため、もうじき1年が経とうとしているが、社員や同僚との人間関係のトラブルもなく、生徒とも雑談を交えながら楽しく交流しており、「アルバイトとはこんなに楽しいものだったのか」という感想を抱いている。
無論どこのアルバイトもこんなに楽しい訳がない。私のアルバイト経験は現在勤めているところだけなので、世間的に言われる「お金を稼ぐことの難しさ」だの「社会の厳しさ」だのは全く学べていない。だがそんなことは今後の人生で学んでいけば良いし、第一、楽しんで金を稼げるのならそんなに良いことはないだろう。
私の生徒には高校生もおり、アルバイトをしている者もいる。高校生のアルバイトといえばやはり飲食店が一般的だ。
やはりというべきか、飲食店のバイトは過酷なようだ。何がって客である。冷房が効きすぎだとか料理をだすのが遅いだとかは日常茶飯事で、酷いものだと水道水の味にケチをつけ店員をサンドバッグにするのだそうだ。
要領の悪い私には絶対に務まらない。私は「塾講師のバイトでよかったなァ...」と思いながら、生徒の愚痴を聞いている。勿論その時間にも給料は発生しているし、私は他人の身の上話を聞くのが好きなので苦にもならない。
そんな良いことずくめかのように思われる塾講師のアルバイトが何故泥沼なのか。
それは良いことずくめだからである。
塾にいる間、私は「先生」になる。そして、慕われているんだか慕われていないんだかは知らないが、生徒にやたらめったら話しかけられる。自分に懐く子供は当然可愛いと感じるし、彼らともっと話したいという欲が生まれる。自己顕示欲が満たされないと言ったら嘘になるだろう。ある日はゲームの話、ある日は学校の話、話題は尽きることはない。
ここが塾講師のバイトの沼なのだと思う。
偏見ではあるが、塾講師のアルバイトのシフトに沢山入っている人は自己顕示欲の高い人間だ。生徒とふれ合うことが自分を認めてもらうことに繋がるのだ。
中には、授業もないのに来塾し、生徒に勉強の調子はどうだとか最近うまくいっているかだの聞く者までいる。指導熱心なのは大変結構なことだが、自分の調子はどうなのだろうか。
聞いた話によると、うちの塾は生徒からバイトに、バイトから正社員になるというパターンが多いのだそうだ。最早一種の宗教である。恐らく、前述した彼も将来正社員になるだろう(これは完全に私の予想であるが)
私はどうかというと、生徒も同僚も、正社員の方も良い人ばかりなので、今後もお世話になろうと考えている。
とはいえ、その居心地の良さに甘え、シフトを入れまくったり、正社員になろうと考えたり(正社員は中々収入が厳しいらしい)はしないように気を引き締めなければならない。
大学はなんだかんだで勉強をする場なのだから、居心地のよいバイト先に居場所を求めたりせず、自分の人生を切り拓く準備期間にしていくべきなのだ。
なんだか説教臭い締めになってしまったが、私の文章を嫌いになったりせずにこれからの記事も読んでいただきたい。
けものフレンズとは何だったのか
アニメ「けものフレンズ」が一世を風靡したのは一年半程前の話だ。
初めは、決してクオリティの高いとは言えないCG、なんだかよくわからない空気感の1話の評判がメジャーで、どちらかといえばネタアニメとして名を馳せつつあった。
しかし、話が進むに連れて、むしろそのCGが癖になっていったり、たのしー世界の中に垣間見える不穏さが受けたり、「けものはいてものけものはいない」という歌詞にも見られるような優しい世界観が疲れた人々にウケたりしたのか、覇権アニメとして名を馳せていった。多くの日本のアニメファンがけものフレンズの虜となっていった。
私もそんなけものフレンズファンの1人だった。
当時大学受験を控え、心身共に疲弊していた私は、週に一度訪れる放送日を心待ちにし、放送の度に癒されていた。
サーバルちゃんのような運動神経がなく、落ち込むかばんちゃんに対してサーバルちゃんが放った、「へーきへーき、フレンズによって得意なことは違うから」という言葉に感動し、現実もこんなふうに言える人(?)ばかりだったらいいのにな、と本気で思っていた。
↑かばんちゃんに手を差し伸べるサーバルちゃん
とはいえ、けものフレンズの世界にも敵役が存在する。それが「セルリアン」だった。
セルリアンがどういう存在かの説明はここでは省くが、第11話にて、サーバルちゃんを庇ったかばんちゃんがセルリアンに吸収されてしまい、最終回に続くという衝撃の展開が訪れ、けものフレンズファン達はかばんちゃんの生死を心配し夜も眠れないという状態が1週間続いた。
そうして訪れた最終回。サーバルちゃんとかばんちゃんが今まで出会ってきた「フレンズ」達が集合し、協力してかばんちゃんを助けるべくセルリアンと戦い、見事かばんちゃんを助け出したのだ。
私は泣いた。
「フレンズ」達の築いた「絆」に心からの涙を流した。恐らく画面の前の「フレンズ」達も同じ涙を流したことだろう。
そんなこんなで大好評のまま「けものフレンズ」は終了した。ラストシーンには薄い字で「つづく」と書かれており、全国のフレンズ達は続編を心待ちにした。
そして今日、アニメ「けものフレンズ」の続編の公式発表があった。当然、全国のフレンズ達は喜びの涙を流した。
はずだった。
この動画の評価欄を見てほしい。
低評価の方が圧倒的に多い。
何故だ。
ご存知の方は多いだろう。「たつき監督降板騒動」が全ての原因だ。
詳しくない方向けに説明しておく。もともと「けものフレンズプロジェクト」はアニメが始まる前にゲーム、漫画にも手を出していた。が、そのどちらもうまく行かず、アニメもあまり期待されていなかった。
その予想に反して、けものフレンズのアニメは大ヒットした。そんなけものフレンズのアニメの監督がたつきさんだ。
優しい世界観の生みの親、アニメけものフレンズの監督として、「フレンズ」達からたつき監督は神のように扱われた。最終回話放送後のけものフレンズ第1話の動画は「たつきありがとう」のコメントで埋まった。
そんなたつき監督が、けものフレンズの監督から降ろされてしまった、とツイートした日を境に、「フレンズ」達は「フレンズ」達でなくなった。
当人たちのみぞ知る、なので私は誰を責めるつもりもないが、KADOKAWAがたつきさんに監督を下りるよう命じたそうだ。
それを聞いた元フレンズ達は怒り狂った。たつき監督のいないけものフレンズなんてけものフレンズじゃない。そんなアニメは見ない。KADOKAWAの陰謀だ、KADOKAWAはたつき監督をのけものにしようとしている。などなど。
最早フレンズではなく教徒だ。
「けものフレンズ」というアニメ作品でなく、たつき監督という人物を信奉し暴れ回る元フレンズ達が大量発生した。
もともとけものフレンズは優しい世界観、フレンズ達の友情がウケたアニメだ。綺麗な世界を見せていた人々が実は汚い世界の中に生きていた。そう感じて、「けものフレンズ」という作品に対して冷めてしまった元フレンズ達もいた。
そんなこんなでアニメ「けものフレンズ」に対する不信感が収まらぬ状況でけものフレンズ2期は発表された。
歯に衣着せぬ言い方をすれば、私もけものフレンズに対して冷めてしまった。あの頃の私はなぜあそこまでけものフレンズに入れ込んでいたんだろう。
思えば、やはりけものフレンズは一種の宗教みたいなものだったんだと思う。当時のネットはけものフレンズで大盛り上がりだった。その中に自分もいるという一体感。それがけものフレンズブームの根底にあったのではないか。今はそう思わざるを得ない。
今、たつき監督を信奉し、ネットで暴れている人たちもきっと一体感が欲しいのだろう。人は、皆「フレンズ」を求めている。
「けものはいてものけものはいない」現実世界は、残念ながらそんな世界ではない。しかし、人は1人では生きられない。だから自分も「フレンズ」の一員になりたがるんだ。
アニメ「けものフレンズ」及びたつき監督降板騒動から、私はそんなことを考えた。
けものフレンズに冷めてしまったとはいえ、私はけものフレンズ2期を視聴するつもりだ。
私は「けものフレンズ」が好きだった。監督が変わってもあの世界は健在だろうか。
きっと難しいだろうなぁ。
平成最後の夏を終えて
タバコは百害あって三利くらいはある
つい先日、高校以来の親しい友人と盃を交わした。彼は高校時代とは大きく様変わりしていたが、その中でも印象的だったのは彼がヘビースモーカーになっていたことだ。
良い感じに酔いが回ってきた時に、彼は私に一本どうだ、と勧めた。私は普段喫煙をしないのだが、人生経験として吸ってみるのもまた一興だと考え、その誘いに乗った。
煙草を吸っている間、私は自分がダンディーでノーブルな大人の男性である様に感じられた。煙を吐きながら虚空を見つめる自分に酔っていたと言ってもいい。無論、ハタから見れば冴えないアホヅラの男が煙草を吸っているだけなのだが。
友達の喫煙姿は中々決まっていた。煙草の美味しさがわからなかった私は、正直カッコつけの為に吸ってんだろ、と尋ねたが、彼は精神安定の為に吸っている、と答えた。
内心、煙草に精神安定を求めたら終わりだな、なんて考えながら酒はどんどん進んでいき、しまいには「最近の喫煙者を淘汰する社会の流れは如何なものか」だの「人生なんて健康寿命が長ければいいんだ」などと人生初喫煙の私はほざき散らしていた。
翌日、私は塾講師のアルバイトに向かった。そこで、生徒がこう発言した。
「喫煙者は自分の健康を損なうだけなら兎も角、周りに害を振りまいて一体何がしたいのかわからない」
昨日俺も周りに害を振りまいたんだけどな、と心の中で悪態を突く間も無く、あれよあれよと反喫煙の意見が同僚、生徒の口から飛び出し、場は完全に喫煙者に対してアウェーであった。(念のため言っておきますが、私は喫煙席で煙草を吸っていたのでマナー違反を犯した訳ではありません)
煙草はよく「百害あって一利なし」と言われる。確かに、金銭面、健康面、周りへの迷惑を考えると、百害とは決して大袈裟ではないのかも知れない。
一方で、ヘビースモーカーとして知られるさくらももこさんは、自分がヘビースモーカーであるからこそ健康に対する意識が高まる為、“健康は煙草から”という持論を自らのエッセイの中で述べている。
また、私の好きな漫画である「魔人探偵脳噛ネウロ」の登場人物、葛西善二郎は、以下の様に述べている。
勿論、実際は煙草が不健康を呼び起こすのは自明であろう。とは言え、それらの害を被っても煙草をやめられない人たちがいるのもまた事実。
「自分に酔える」「大人を演出できる」「精神を安定させられる」...百害あって一利なし、とは言うものの実際は三利くらいはあるのだろう。煙草を吸う、という習慣が合理的かどうかは兎も角、タバコはこれからも日本社会に蔓延り続けるだろう。
とはいえ、やはり自分の快楽のために他人の健康に害を及ぼすのは宜しくない。自宅で洋楽でも聴きながら、誰にも迷惑をかけずにひっそりと自分に酔う。それがダンディーでノーブルな大人なのではないか、と煙を眺めながら私は考えた。